傘のない夜に

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雨宿り様に作られた、端がボロボロの緑の幕から、リズム良く滴が落ちてきた。

何台も何台も車が通り過ぎてゆくその視界には、半透明な斜線が無数に入っている。

耳をすますと、まるで傘の中に入っているかのような、ボツボツボツという音が聞こえる。

あぁ、なぜあの時引き返さなかったんだ。

引き返していれば、こんな、至って強くもなく、弱くもない雨に苦しめられることはなかっただろうに。

今朝家を出た時、明らかに雲行きが怪しかった。

「雨、降りそうやな。」

「いや、大丈夫か」

迷いつつも、後輩から5万円で買った自転車に乗った。50メートルは離れただろうか。

「いや、こりゃ傘持っといたほうがいいな」

「けどこのまま匂わせておいて降らないパターンもあるな」

迷った挙句、引き返して傘を取ってくるのが正解だったと思いつつも、引き返さないことにした。

運良く、雨が強くなったところで店に到着し

て安心していたが、甘かった。まさかその雨が、ずっと振り続けるなんて。

朝、帰り道のことなんて考えもしなかった。やっぱり傘を持ってくるべきだった。片手に傘を持ち続けるという小さなリスクが生まれるだけだ。いや、もしかするとリュックに刺すこともできたかもしれない。そうなると、リスクなんてほぼほぼ無いに等しい。

引き返すという面倒くささと、小さなリスクに怯えて、雨が降ったらずぶ濡れになって帰らなければならないという爆弾をかかえてしまった。

完全に、判断を誤った。だから僕はさっきまで、レトルトの白米と納豆を3つほど孤独に食べる羽目になったのだ。

この、端がボロボロの緑の幕の下で、雨宿りをするしかなかった。

しかしだ。そんな、“ネガティヴ”、“なえポヨ”とでも言うであろう状況下でも楽しむ術を、この21年間で僕は身につけてきたつもりだ。

僕は、1つの小説を書き始めた。そう、これはブログなどという現代じみたものでは無い。

小説だ。

小説とは、「作者が自由な方法とスタイルで、人間や社会を描く様式」だとWikipedia先生が言っている。

いやしかし、冷静になるとこれがブログであることに変わりは無い。よし、ブログで小説を書いているということにしよう。これで仲直りだ。

とにかく僕は小説を書きたいと思った。しかし、小説などというものを読んだ経験というのは、人生で自分の指で数えられる程しかない。どう書いていいのか分からないので、とにかく、端がボロボロの緑の幕やら、半透明の斜線やら、小説っポイ表現をしてみた次第だ。

雰囲気はそれなりに出ていたのではなかろうか。なかろうかなどという言葉を普段使うことは全く無いので、完全に今僕はイキっている。今日(こんにち)だけは、小説家日南太だ。

しかしこの小説を振り返ってみたところ、実にしょうもない内容であることがわかる。

この小説を簡潔に、現代風に表現すると

「くっそぉ、傘持ってくりゃ良かった泣」

である。

ただ、普遍的な現実をいかに表現力を持って読者に想像させ、面白いがらせるのかというのが小説の醍醐味でもあると思っている。

僕が生まれて初めて書いた小説だ。

ここまできて、この小説のタイトルを

「傘のない夜に」

に決めた。なんか、ソレっぽい感じだ。しっくりきている。

 

小説を書き終えた頃には雨が止んでいることを期待したが、そう甘い世の中ではないようだ。

今から、ずぶ濡れになりながら帰ろうと思う。

「くっそぉ、傘持ってくりゃ良かった泣」