僕のじいとばあ

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おはようございます。昨日の飲み会で酔っ払って、ズボンのひもを究極に固く結んでしまい脱げなくなった日南太です。

 

さて。

 

今日は、僕のじいちゃんとばあちゃんの話をしたいと思います。

 

僕はずっと、じいちゃんとばあちゃんのことを「じい」「ばあ」と呼んでいます。

僕は、じいとばあのことが大好きです。

平戸に住んでいて、小さい頃は毎年、正月にじいとばあの家は家族で行き、大家族のいとこも(7人兄弟だっけ)みんな集まり、それはそれは賑わっていました。

当時僕は長崎の佐世保に住んでいたのですが、親が離婚し、僕ら子供は4人全員お父さんが引き取ることとなります。(驚かれるけど、今では僕の下に4人の弟、妹がいます)

 

そんなこんなで、じいとばあはお父さんの親なので、僕は小学5年生から平戸で過ごすことになりました。

めちゃめちゃ人の多いマンモス小学校から、全校生徒29人のど田舎にある小学校に転校です。当時、僕は本当に何も考えていないアホでしかなかったので(今もアホだけど)離婚のことも別に重く考えることなく、学校が3キロも離れていて、家には長い急な坂があること、それを毎日走って登下校できることに喜んでいました。(まじで小さい頃からドMやったんやな)

 

お父さんは海上自衛隊だから、月に何度かしか帰ってこれません。

 

「じい、ばあ、これからよろしくお願いします。」 

 

じいとばあに育てられる毎日が、スタートしました。 とても広い家で、子供部屋とじいとばあの部屋は分かれていて、みんなが集まるのは食事のときだけ。

「ご飯でけたぞー!てー洗ってこーい!」

ばあの声で、みんな集まります。

しかし僕たち兄弟はなぜか親やじいとばあの前では自分を出すことができない子供だったので、本当に食事中も会話というものはありません。「おはよう」「ありがとう」「いただきます」「うん」「おやすみ」 そんな、あいさつのようなコトしか話していませんでした。

 

まだガキだった僕は、野球で泥だらけのユニフォーム毎日洗濯し、毎日ご飯を作ってくれているのに感謝など1ミリも感じることなく、じいとばあのことをうざがっていた時期もありました。

悪さをして学校の先生が家に来て怒られ、悲しませてしまったこともあります。

それでもじいとばあは、僕たちのコトを一生懸命育ててくれました。自分の、大切な時間を使って。

高校は、『レギュラーになって甲子園に行く』という目標を達成するために、お金がそんなにあるわけでもないのに、私立の九州文化学園に進みました。後悔は全くないですが、今の僕だったら絶対に公立高校に進んだでしょう。当時は家計のことなんて全く考えていなかった。頭にあるのは自分のコトだけ。

佐世保の高校だったので、じいとばあとはそれ以降離れ離れになりましたが、5年間、僕を育ててくれました。

 

高校野球が終わると、僕の目標は変わりました。次は、ある女の子との会話をきっかけに

『日本一のボートレーサーになる』

という目標ができました。

ボートレーサーを目指す人間が必ず通る登竜門、『ボートレーサー養成所』の試験をなんとか一発で合格しましたが、そこで待っていたのは僕にとって、幸せであり、求めていた環境であり、しかし苦しいものでした。

とにかく精神は崩壊していた。「もうもたない。誰か助けてくれ」そんなコトを思っていた時、ある手紙が届きます。

 

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じいとばあからの手紙でした。

とにかく溢れ出す涙が止まらない。毎晩毎晩、1人でトイレに行ってこの手紙を見て、泣いていました。

「俺、頑張るから。必ずボートレーサーになって、お金もいっぱい稼いで、恩返しする。」

 

毎晩毎晩こんな気持ちになり、力を振り絞り、踏ん張る事ができました。

 

しかし、人生は思い通りにいかない。

入所2ヶ月後に行われる第一回班別試験。ここで最初の脱落者が3名でました。その中の1人に、入り込んでしまったのです。

現実を受け止めるのには時間がかかった。暴飲暴食の毎日。「平戸で何も考えず、農作業をしていたら少しは気持ちが楽になるだろう」

そんなことを考えた親に無理やり連れられて、じいとばあの家で数日間過ごすことになりました。

 

明らかに表情が死んでいる。気力がない、見た目も中身も変わり果てた僕を見て、あの大好きなばあが、涙を流しました。

「ばあが涙を流してる。。変わらないといけない」

そう思っても、まるで体は動かない。気持ちが入らない。あんなに、努力できていたのに。

なんでだよ、どうしたんだよ、頑張れよ俺。。!!!!

むしゃくしゃする一方でした。やけくそのように、親がたまたま進めてきた東京の工場で働くことを決めて、平戸を出ることになります。

別れる時にばあが僕に言った一言は、ずっと忘れないでしょう。

「ばあはいつまでも、日南太を1番に思ぉとるけん」

この言葉は、今でも僕の心の支えです。

 

今、ようやく元気な姿を見せられるようになりました。電話1つで喜んでくれます。

5年間僕を育ててくれた。大好きなじいとばあ。

それでも、流させてしまったあの時の涙。

 

あと何年かわからないけれど、もう会えなくなるまでに、必ずもう一回涙を流させます。

今度は、溢れんばかりの、嬉し涙を。

 

「日南太を育てて良かった」

そう思ってもらえるような、生き方をしたい。

今日も一歩近づくぞ。。

 

とりあえず、電車乗り遅れた。。

ちくしょう、明日行くから待っててね。。

じい、ばあ。。。。